「働けるでしょ」で返される国で、どう立て直せばいいのか。令和の貧困は『怠慢』ではなく『足場の弱さ』だ

『抜け出す足場が弱すぎる』という大きな文字と、ネットカフェのような狭い部屋でスマホを見つめながら疲れ切った表情で座る若者を描いた、令和の貧困と不安定就労を表現するポップアニメ風サムネイル 社会構造
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働いているのに沈む人がいる。そこを見ないと、令和の貧困は読めない

「貧困」と聞くと、いまだに「働いていない人の問題」と思われがちだ。けれど、令和の貧困はもうそんな単純な話ではない。スポットワークでつなぎ、フードデリバリーでしのぎ、住まいはネットカフェや不安定な部屋を渡り歩く。働いていないどころか、むしろその日その日を埋めるために動き続けている人ほど、深く沈んでいくことがある。

なぜか。理由は単純で、今の社会は「少しでも働けば抜け出せる」ほど甘くないからだ。物価は高い。家賃は逃げない。税金も社会保険も待ってくれない。体調を崩したら、その瞬間に収入は止まる。しかも、不安定就労の人ほど休んだ日の穴が大きい。つまり、令和の貧困は「怠けた結果」ではなく、「止まれない働き方に追い込まれた結果」として起きやすい。

一度崩れると、抜け出す足場が細すぎる

僕がいちばん問題だと思うのはここだ。貧困は「入ること」もきついが、「抜けること」はもっときつい。一度崩れた人の前にある足場が、あまりにも細い。

まず、生活が不安定だと判断力が落ちる。寝不足、空腹、不安、焦り。これが続けば、まともな計算も、役所に行く気力も、求人を比較する余裕も消えていく。そこに慢性痛や精神的不調が乗ると、就労継続は一気に難しくなる。なのに周囲は「まだ若い」「働けるだろ」と言う。その言葉は、現実を見ていない。

しかも、こういうときほど家計は見えなくなる。目先の現金をつなぐために、日払い、後払い、借り入れ、立て替え、支払い猶予が入り乱れる。家庭によっては、外から見れば「どうやって回っているのか分からない」ミステリー家計ができあがる。だが、あれはだらしなさではない。足場が弱い中で、その日を生き延びるために発生した独自サバイバルだ。

制度はある。でも、紙の上にある制度と現場で届く支援は違う

ここでよく起きるのが、「制度はちゃんとある」という反論だ。たしかに制度はある。生活保護もある。生活困窮者への支援制度もある。住まい、就労準備、家計相談、伴走支援という言葉も並んでいる。

でも、問題はそこではない。本当に問うべきなのは、それが現場で“入口として機能しているか”だ。支援制度は、知っているだけでは届かない。窓口まで行ける体力がいる。話を整理する気力がいる。書類をそろえる段取りがいる。場合によっては、役所で冷たい空気に耐える精神力もいる。

生活が崩れている人に必要なのは、そこでさらに根性を試されることではない。本来は、崩れた状態でも入れる入口が必要だ。ところが現場では、「まだ働けるだろ」「まず仕事を探して」「それは要件が厳しい」といった空気が先に立つことがある。この時点で、制度は“ある”けれど、“届いていない”。

「働けるでしょ」は、支援の言葉ではなく雑な査定になりやすい

この言葉の何がまずいか。働けるかどうかは、本来もっと細かく見なければいけない問題だからだ。今日たまたま立っていられることと、来月も安定して働き続けられることは違う。面接に行けることと、就労を継続できることも違う。ネットカフェ生活で眠れていない人、うつや不安で朝に体が動かない人、痛みを抱えながら日銭をつないでいる人に向かって「働けるでしょ」は、現実の切り分けとして雑すぎる。

しかも、この一言は制度不信を生む。困っている人は、役所に行くだけでも相当なエネルギーを使っている。そこで「まだやれるよね」と返されたら、多くの人は「もう二度と行かない」となる。結果として、公的支援から遠ざかり、支援団体や知人づての非公式な助けに流れやすくなる。民間の支援が悪いのではない。公的入口が信頼されていないことが問題なのだ。

本当に必要なのは、就労指導より先に“生活を立て直す順番”だ

僕は、支援の順番をもっとはっきり変えるべきだと思う。崩れている人に最初から就職を迫るのではなく、まずは生活の土台を戻すことが先だ。

  • 寝る場所を確保する
  • 食事を安定させる
  • 医療や服薬を中断させない
  • 家計を一緒に見える化する
  • 一人で窓口に行けない人には同行や伴走をつける

この順番を飛ばして「働け」は乱暴だ。壊れた足場の上で走れと言っているのと同じだからだ。立て直しに必要なのは気合ではない。順番である。そして、ゼロか百かで支援を切るのではなく、少し働けたら少しずつ薄くなる仕組みのほうが、人は戻りやすい。

支援団体が最後の砦になっている時点で、福祉はまだ完成していない

今の日本では、支援団体が本当に重要な役割を果たしている。食料配布、居場所づくり、同行支援、声かけ、制度説明。そこに救われる人は多い。けれど、僕は同時にこうも思う。支援団体が最後の砦になっている時点で、公的福祉だけでは現場を支え切れていないのではないか。

本来、行政窓口は説教や査定の場ではなく、生活維持の入口であるべきだ。もちろん不正受給を放置しろという話ではない。そうではなく、本当に困っている人が、人格ごと削られずに入っていける入口になっているかを問い直す必要がある。今の問題は、制度がゼロなことではない。制度不信と窓口不信が先に立ちすぎていることだ。

令和の貧困に必要なのは、自己責任論ではなく“足場の再設計”だ

令和の貧困は、金がないだけの話ではない。助けを求めた先で、人格ごと削られることがきついのだ。だから「もっと頑張れ」は解決にならない。必要なのは、「一度落ちた人がどう戻れるか」を社会の側が本気で設計し直すことだ。

住まい、食事、医療、子育て、家計、就労。この順番を一本ずつつなぎ直していく。その間、支援はゼロか百かで切らない。窓口は“説得して追い返す場所”ではなく、“生活をつなぎ止める場所”に戻す。令和の貧困を本気で減らしたいなら、ここを変えないといけない。

貧困は「抜け出せない」のではない。抜け出す足場が、細すぎるだけだ。だったら責める相手は、目の前の当事者ではない。足場を細くした社会の設計のほうだと、僕は思う。

編集後記

この手の話をすると、必ず「でも働ける人もいるだろ」「甘やかしすぎでは」という声が出る。けれど僕は逆だと思っている。いま必要なのは甘やかしではなく、壊れた人間を気合で再起させようとする雑さをやめることだ。

人は、限界の手前ではなく、限界を少し越えてから支援を探し始めることが多い。そのときに「まだやれる」と返す社会は、立て直しの入口を自分で壊している。副研としては、この問題を単なる福祉論ではなく、令和の生活防衛論として掘っていきたい。働くことを否定したいのではない。壊れるまで働かせる構造を肯定したくないだけだ。

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