少し動けた。少し働けた。少し収入が入った。
本来なら、それは前に進んだということのはずだ。ゼロより一のほうがいい。何もできないより、少しでも動けたほうがいい。普通に考えればそうだ。
ところが、令和の生活はここが妙にねじれている。少し働いたことで安心に近づく人もいる一方で、逆に前より不安が増す人がいる。支援が減るかもしれない、手当が切られるかもしれない、窓口で「じゃあ働けますね」と見なされるかもしれない。ようやく一歩動けたのに、その一歩が次の不安の材料になる。
僕はこの構造がかなりまずいと思っている。人が立て直る途中には、「ゼロではないけれど、まだ全然安定でもない」という時期がある。そこを一番ていねいに支えないといけないのに、今の社会はそこを雑に扱いやすい。少し働けたならもう大丈夫だろう、少し収入があるなら支援は薄くしていいだろう、そういう空気がどうしても出てくる。
でも、生活はそんなに単純じゃない。少し働けることと、生活が立て直ったことはまったく別の話だ。
少し働いたのに、なぜ前より苦しくなるのか
この違和感の正体は、生活全体を見ないまま「収入が発生した」という一点だけで判断されやすいことにある。
たとえば、単発の仕事を少し入れた。配達を何本かやった。短時間だけ働けた。これで現金は入る。もちろん、それ自体は大事だ。何も入らないよりはいい。けれど、その金で家賃も食費も通信費も税金も全部回るかといえば、そんなことはない。多くの場合、足りない。それどころか、交通費や食事代や疲労まで含めると、生活全体ではそこまで楽になっていないことすらある。
それでも「収入がある」という事実だけは残る。すると外から見ると、「少し戻ってきた人」に見える。でも本人の実感は違う。金は入ったのに安心感がない。動いたのに、暮らしは相変わらず不安定だ。ここにズレがある。
しかも、生活が苦しい時期の収入は、額そのものよりも波の大きさがきつい。昨日は入った、今日は入らない。今週は動けた、来週は分からない。そういう不安定さの中では、少しの収入は命綱にもなる一方で、「だからもう支えはいらないよね」と見られる材料にもなってしまう。この感じが、人をかなり消耗させる。
立て直しを邪魔するのは、怠慢ではなく制度の段差だ
こういう話をすると、すぐに「でも働けるなら働いたほうがいいだろ」という声が出る。たしかに、それ自体は間違っていない。問題はそこではなく、働いたあとに待っている段差のほうだ。
今の社会には、支援がゼロか百かで切り替わるように感じる場面が多い。もちろん実際の制度はもっと細かいし、一気に全部切られるとは限らない。けれど、生活が崩れている側からすると、体感としてはかなり急だ。少し動けたことで「もう行けますね」に空気が変わる。相談の温度が変わる。見られ方が変わる。その変化が怖い。
しかも、少し回復した人ほどいちばん不安定でもある。完全に寝込んでいるわけではない。だが、フルタイムで安定就労できるほど回復しているわけでもない。この中途半端な時期がいちばん大事なのに、ここを支える仕組みや空気が弱い。結果として、人は二択を迫られやすくなる。まったく働かないか、無理して一気に戻るか。そのどちらも危ないのに、その間が細い。
ここでつまずくと、本人は「またダメだった」と思いやすい。でも実際には、ダメだったのは根性ではなく、回復途中を受け止める仕組みのほうだと思う。
就労支援が「再建」ではなく「自力で何とかしろ」になっていないか
僕は就労支援そのものを否定したいわけではない。仕事は大事だし、働くことが生活を戻す入口になる人もいる。ただ、そこにひとつ怖さがある。就労支援が、いつの間にか「生活を再建する支援」ではなく、「とにかく自力で何とかしてほしい」という圧力に変わることがある。
短時間の仕事や単発収入は、ゼロからの一歩としては意味がある。でも、それだけで生活の土台まで戻るとは限らない。寝る場所が落ち着いていない、家計がぐちゃぐちゃ、体調も不安定、支払いも詰まっている。そういう状態なら、少し働けたことは前進ではあっても、まだ再建ではない。
それなのに、「働いた」という事実だけで自立に近づいたと見なされると話がおかしくなる。本当は、働けたことと自立に向かったことのあいだにはかなり距離がある。短時間働けた。単発で金が入った。それは大事だ。だが、その大事な一歩をもって「もう大丈夫」と扱うなら、支援のほうが焦りすぎている。
人は、働いた瞬間に立て直るわけではない。働きながら戻る。揺れながら戻る。止まりながら戻る。そこを認めないと、再建の現実は見えてこない。
本当に守るべきなのは、「働かない自由」ではなく「少し働ける余白」だ
この話をすると、「じゃあ働かなくていい社会が理想なのか」と受け取る人もいるかもしれない。僕はそうは思わない。必要なのは、まったく働かないことを理想化することではなく、少し働ける余白をちゃんと守ることだと思う。
ゼロか全開か、という設計は人を壊しやすい。今日は無理、明日は少し動ける、来週はまた落ちるかもしれない。そういう揺れの中で人は戻っていく。だったら、その揺れを前提にした支え方が必要になる。少し働いてもすぐ全部失わない。少し収入があっても、いきなり「自立した人」扱いされない。戻る途中の不安定さを前提にしたほうが、むしろ現実的だ。
生活が崩れた人に必要なのは、「完全に元気になるまで一切動くな」という話でもなければ、「少し動けたなら今すぐフルで戻れ」という話でもない。その間だ。その間にいられる余白がないと、人は長く持たない。
回復途中の人を支えるべき社会なのに、回復途中がいちばん居場所を失いやすい。ここはかなり大きな矛盾だと思う。
人を立て直す社会なら、「回復の途中」をもっと守るはずだ
本当に人を立て直す気がある社会なら、回復途中の人をいちばん雑に扱ってはいけないはずだ。まだ不安定だけど、完全には止まっていない人。少し働けるけど、まだ危うい人。その人たちをどう守るかが、本当は一番大事だと思う。
なのに現実には、その層がいちばん説明しづらい。元気ではない。でも、まったく動けないわけでもない。数字にもしづらい。診断書一枚で全部割り切れる話でもない。だから雑に扱われやすい。けれど、生活の再建はたいていそこにある。白か黒かではなく、灰色の時間の中でしか人は戻れない。
支援は、本当は切るものではなく、薄くしながらつなぐもののはずだ。急に外すと落ちる。少しずつ外すから歩ける。ここが逆だと、人は立て直るどころか、また元の不安定さへ戻される。
僕は、令和の貧困のやっかいさはここにあると思っている。働けば解決するわけではない。支援があれば解決するわけでもない。そのあいだにある段差が、人を何度もつまずかせる。そしてそのつまずきが、本人の失敗として処理されやすい。そこがきつい。
必要なのは、「戻るまで支える支援」だ
少し働くと損をする。少し回復すると切られそうになる。そういう空気や構造がある限り、人は安心して戻れない。戻る途中でまた落ちるかもしれないという不安を抱えたまま、常に全力を要求される。それでは長続きしない。
本当に必要なのは、頑張ったら外れる支援ではなく、戻るまで支える支援だと思う。少し働けたことを評価しながら、まだ不安定であることも同時に認める。少し収入があることを見ながら、生活全体はまだ立て直っていないことも見る。その両方を同時に扱えないと、人は途中でこぼれる。
令和の貧困を自己責任で片づけたくないなら、この「回復の途中」をどう守るかをもっと真面目に考えないといけない。働けたかどうかだけではなく、戻り切るまでのあいだに何が必要か。その視点がないままでは、再建の話はいつまでも根性論に戻ってしまう。
立て直しは、一発逆転ではない。少しずつ戻るものだ。だったら社会の側も、少しずつ戻る人を支える作りになっていないとおかしい。僕はそう思う。
編集後記
生活が苦しい人に向かって「少しでも働けたなら前進だ」と言うのは簡単だ。でも実際には、その一歩が安心につながるとは限らない。むしろ、その一歩のせいで別の不安が増えることすらある。ここを見ないまま「働けたならよかったね」で終わるのは、かなり雑だと思う。
このシリーズで書いてきたのは、結局ずっと同じことかもしれない。貧困は怠慢の問題ではなく、足場の問題だということだ。足場が弱い。窓口で削られる。立て直しには順番がある。そして今度は、少し戻ろうとしたところに段差がある。どこまでいっても、問題は本人の気合より、途中で落とされやすい構造のほうにある。
次は、この流れで「支援団体が最後の砦になっている社会」や、「公的福祉だけでは現場を支え切れていない問題」に進んでもいいと思う。そこまで行くと、このシリーズはかなり骨太になる。


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