「まだ働けるでしょ」で片づけないでほしい。人を追い込む“支援の根性論”について

『支援の根性論』『まだ働けるでしょで片づけない』という大きな文字と、福祉相談の窓口で不安そうな表情を浮かべる女性、相談員、ひび割れた足場のイメージを描いた、支援現場の圧力と生活不安を表現するポップアニメ風サムネイル 社会構造

「まだ働けるでしょ」

福祉や支援の話になると、この一言が妙に軽く投げられることがある。

でも、言われた側からすると軽い言葉ではない。むしろ、かなり重い。やっとの思いで相談に行って、生活の苦しさや体のしんどさや、お金の回らなさを話した先で、この一言が返ってくる。そうなると、人は助言を受けた気持ちにはなりにくい。責められたように感じる。まだ足りない、もっと頑張れと言われたように感じる。

僕はここに、令和の貧困のきつさが詰まっていると思う。金が足りないことだけじゃない。助けを求めた先で、「あなたはまだ支援の対象になるほどではない」と空気で削られる。その感じが、人をかなり深く黙らせる。

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体が動くことと、生活を立て直せることは同じじゃない

この話でまず分けて考えたいのは、「働ける」と「立て直せる」は別だということだ。

たとえば、今日一日だけなら動ける人はいる。痛みをごまかしながら、寝不足のまま、食事も適当なまま、その日だけ何とか働く。そういうことは現実にはある。けれど、それで生活が立て直せるかといえば、全然別の話だ。明日も同じように動けるのか、来週も続くのか、家賃や税金や食費まで含めて生活全体が回るのか。そこまで見ないと、本当は「働ける」とは言えない。

なのに、窓口ではどうしても「今この場で動けそうか」が先に見られやすい。若い。会話ができる。立って歩ける。スマホも使える。だったらまだ働けるだろう、と。けれど現実の生活は、そんな雑な判定では回らない。働くというのは、1時間だけ動けるかどうかではなく、生活全体を壊さず続けられるかどうかの問題だからだ。

助けを求めた先の一言が、人を黙らせてしまう

支援の場で本当に怖いのは、怒鳴られることだけではない。もっと静かな形で、人を遠ざけることがある。「まずは仕事を探しましょう」「若いんだから大丈夫ですよ」「まだ働けますよね」。こういう言葉は、一見すると乱暴ではない。言い方だけ見れば、丁寧ですらある。

でも、生活が崩れている側からすると、その丁寧さが逆にきつい。こちらは「もうかなり危ない」と思って来ているのに、返ってくるのが「もう少し頑張れるはず」だと、相談した意味がなくなる。すると人は、次から相談しなくなる。役所に行かなくなる。制度のことを調べる気力も失う。結局、またその日暮らしに戻る。

この流れが厄介なのは、表向きには誰もひどい言葉を使っていないことだ。暴言があったわけではない。けれど、実際には入口で削られている。しかも削られた側は、「自分の説明が悪かったのかな」「まだ甘いと思われたのかな」と自分を責めやすい。そこが本当にきつい。

なぜ支援の場で根性論が出てくるのか

ここで考えたいのは、窓口にいる人を単純に悪者にして終わる話ではない、ということだ。もちろん、不当な対応は不当な対応として批判されていい。けれど、それだけでは足りない。もっと奥にある構造を見ないと、同じことは何度でも起きる。

今の支援は、どうしても「生活の再建」より「就労の再開」を急ぎやすい。働けるなら働く。就職できるなら就職する。その方向自体は間違いではない。問題は、それが早すぎることだ。寝る場所も気力も体力も不安定な人に、いきなり就労の話を乗せると、支援は再建ではなく圧力になる。

しかも、見えにくいしんどさほど軽く扱われやすい。精神的な疲弊、慢性的な痛み、家庭のごたつき、借金の焦り、孤独、判断力の低下。こういうものはレントゲンみたいには見えない。数字にもなりにくい。だから雑に「気持ちの問題」にされやすい。ここで根性論が顔を出す。要するに、「見えない苦しさ」を理解するより、「まだ頑張れるでしょ」と言って前に出したほうが、その場では早いのだ。

でも、早いことと正しいことは違う。足場のない人を急がせても、だいたいまた同じ場所で転ぶ。

一番こぼれやすいのは、完全に倒れる前の人たちだ

僕は、令和の支援の弱さはここに出ると思っている。完全に倒れた人だけが「大変な人」として見えやすく、その手前で踏ん張っている人ほどこぼれやすい。

まだ少し動ける。少しは稼げる。ギリギリでつないでいる。だからこそ、「本当に困っている人」に見えにくい。だが、その層がいちばん危ない。完全に壊れていないから支援につながりにくい。でも放っておけば壊れる。まさにその中間にいる人が、今の制度や窓口の空気から一番こぼれやすい。

しかも、その人たちは真面目なことが多い。働かなきゃと思っている。迷惑をかけたくないと思っている。生活保護や支援を受けることに後ろめたさを持ってしまっている。だから、窓口で少しでも「まだ頑張れるよね」という空気が出ると、すぐ引いてしまう。本当はそこで引いたらまずいのに、引いてしまう。

ここに自己責任論のいやらしさがある。表向きは「自立を応援している」ように見えながら、実際には、一番助けが必要な手前の人をふるい落としてしまうことがある。

足場がないまま働かされても、また沈むだけだ

仕事は大事だ。働くこと自体を否定したいわけではない。けれど、足場が壊れたまま働かせても、生活は立て直らない。

寝る場所が落ち着いていない。食事も不安定。体も痛い。頭も回らない。家計はぐちゃぐちゃ。そういう状態で「とにかく働こう」となっても、せいぜい目先の延命にしかなりにくい。今月をしのげても、来月また同じ場所で苦しくなる。そして周りは「ほら、働いてもダメだったじゃないか」と見る。違う。ダメだったのは本人ではなく、順番だ。

立て直しには順番がある。まず寝る。食べる。休む。痛みや病気を放置しない。お金の流れを見えるようにする。必要なら同行してくれる人がいる。そこまでやって、やっと仕事の話が生きてくる。逆に言えば、この順番を飛ばして就労だけ急がせる支援は、本人の力を引き出すどころか削ってしまうことがある。

本当に必要なのは「頑張れ」ではなく「まず立て直そう」だ

令和の貧困に必要なのは、説教ではない。根性論でもない。まず立て直すための時間と場所だと思う。

少し休めること。安心して眠れること。目先の現金だけに追われないこと。役所や制度の話を、一人で抱え込まなくていいこと。こういう土台があって初めて、人は働く話を現実として考えられる。逆に、そこがないまま「自立」を急がせると、自立支援ではなく自立の押し売りになってしまう。

たぶん、多くの人は本当は頑張りたくないわけじゃない。もう十分頑張っている。問題は、その頑張りが生活を立て直す方向に結びついていないことだ。穴の空いたバケツに水を入れ続けているような状態で、「もっと水を運べ」と言われている。それでは苦しいに決まっている。

精神論は足場にならない

僕は、「まだ働けるでしょ」という言葉の一番まずいところは、人を励ましているようでいて、実際には足場を作っていないことだと思う。精神論は、その場では前向きな言葉に見える。でも、寝床にも食事にも治療にもならない。家計も整理してくれない。相談に同行してくれるわけでもない。つまり、生活を支える材料にはなっていない。

必要なのは、もう少し地味なものだ。すぐ劇的には変わらないかもしれないが、ちゃんと生活を支えるもの。止まれる場所。切れない支援。少し働いてもいきなり全部失わない仕組み。説教より先に、そういう足場がいる。

令和の貧困がきついのは、金がないからだけではない。助けを求めたときに、「その程度ならまだいける」と扱われやすいことだ。だからこそ、支援の言葉が人を追い込む瞬間を見逃してはいけないと思う。

編集後記

僕は、働くことそのものを否定したいわけではない。働けるなら働いたほうがいい場面はあるし、仕事が生活を立て直す入口になることもある。ただ、それは足場があってこその話だと思う。

今の社会は、足場の弱い人ほど「まだ頑張れ」と言われやすい。しかも、その言葉を言う側に悪意がないことも多い。だから余計に厄介だ。悪意がないまま人を追い込む仕組みは、むしろ長く残る。

第1話で書いたように、貧困は「抜け出せない」のではなく、「抜け出す足場が弱すぎる」問題だと思う。そして第2話では、その足場をさらに細くしてしまうものの一つが、支援の場に入り込んだ根性論だと書いた。次は、じゃあその足場を現実にどう拾い集めるのか、そこに進みたい。

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