制度はある。
生活保護もある。生活困窮者への支援制度もある。家計相談、住まいの相談、就労支援、食料支援につながる窓口も、一応は並んでいる。紙の上だけ見れば、日本はそこまで何もない国ではないはずだ。
それなのに、助からない人がいる。制度があるのに届かない。むしろ、本当に苦しい人ほど制度の入口で止まりやすい。僕はここに、令和の貧困のかなり厄介な部分があると思っている。
足りないのは制度の名前ではない。届き方のほうだ。相談してくださいと言われても、その相談に行く力がもう残っていない人がいる。窓口へ行ってくださいと言われても、その窓口が一番しんどい場所になっている人がいる。制度がないのではなく、制度までたどり着けない。そこにいまの現実がある。
そして、その現実を生んでいるものの一つが、窓口不信だと思う。
制度はあるのに、なぜ人は助からないのか
この話になると、よく「相談すればいいのに」という言い方が出てくる。たしかに正論ではある。困ったら相談したほうがいい。早めに窓口へ行ったほうがいい。制度は知ったほうがいい。それ自体は間違っていない。
でも、その正論がそのまま通るなら、ここまでこじれていない。
生活が崩れている人は、だいたい一つだけで苦しんでいるわけではない。金がないだけじゃない。寝不足、痛み、不安、食事の乱れ、家計の混乱、家族の問題、仕事の不安定さ、孤独。こういうものがいくつも重なっている。だから「相談に行く」という一手が、外から見るよりずっと重い。
しかも、相談に行けばすぐ何とかなるとも限らない。何から話せばいいのか分からない。自分でも状況が整理できていない。聞かれたことにうまく答えられない。必要な書類が足りない。説明しているうちに、自分が悪いような気がしてくる。こういうことが積み重なると、人は「制度がある」ことより先に、「自分には無理だ」という感覚を持ってしまう。
制度の有無と、制度が届くことは別だ。ここを分けて見ないと、現実は読めない。
窓口不信は、ただの思い込みではない
窓口不信という言葉を使うと、「被害妄想じゃないのか」「必要以上に怖がっているだけでは」と思う人もいるかもしれない。でも僕は、そんなに簡単な話ではないと思っている。
もちろん、すべての窓口が冷たいわけではない。親身な人もいる。本当に助かった人もいる。それは間違いない。ただ一方で、「行ったけど削られた感じがした」「まだ働けるでしょという空気を感じた」「結局、自分が悪いみたいに思えてきた」という話も現実にある。
厄介なのは、ここで必ずしも露骨な暴言があるわけではないことだ。怒鳴られたとか、明確に追い返されたとか、そういう分かりやすい話じゃない場合も多い。むしろ、丁寧な言葉のまま削られることがある。「まずは働ける方法を考えてみましょう」「若いからまだやれますよ」「すぐに使える制度は限られますね」。言葉だけ見れば穏やかだ。でも、言われた側は十分に削られる。
なぜなら、困っている人は最初から自分を責めやすいからだ。そこに「まだ頑張れるのでは」という空気が乗ると、一気に引いてしまう。窓口不信は、ただの誤解ではなく、そういう体験の積み重ねで生まれている面があると思う。
一番きついのは、苦しさをうまく説明できないことだ
本当に生活が崩れている時期は、自分でも何がどこまで壊れているのか分からなくなりやすい。金がない。だけど、金だけの問題でもない。働けない。だけど、完全に寝たきりでもない。体が痛い。だけど、見た目では分かりにくい。気持ちが落ちている。だけど、それを言葉にしようとすると余計に苦しくなる。
こういう状態の人にとって、一回の相談で現状を整理して伝えるのはかなり難しい。家計簿みたいにきれいに説明できる人ばかりではない。何に困っているかを聞かれても、「全部」としか言えない時期がある。寝不足も不安も借金も体調不良も、全部つながっているからだ。
でも、窓口はどうしても整理された情報を求める。収入はいくらか、家賃はいくらか、就労状況はどうか、病歴はどうか。もちろん必要な確認ではある。けれど、生活が崩れている人からすると、その確認に答えるだけでかなり消耗する。
だから「説明できない=困っていない」ではない。むしろ逆で、本当に苦しい人ほど説明が難しくなることがある。このズレは、もっと知られていいと思う。
制度につながれない人ほど、制度を必要としている
ここに大きな皮肉がある。本当に危ない人ほど、制度にたどり着く体力が残っていないことがあるのだ。
まだ余裕のある人なら、制度を調べられる。必要書類も集めやすい。複数の窓口を回ることもできる。言い換えるなら、制度にたどり着きやすい人は、まだ少し力が残っている人でもある。
逆に、本当に危ない人はそこが弱い。スマホを見るのもしんどい。役所まで行くのがきつい。何を持っていけばいいのか分からない。朝に起きられない。人と話すだけで疲れる。となると、制度を必要としているのに、その制度に一番つながりにくい。かなり残酷な構造だと思う。
しかも入口が複雑だと、人は手前で落ちる。ここは福祉、ここは家計、ここは就労、ここは住まい。理屈では分かれていたほうが整理しやすいのかもしれない。でも、生活が崩れている人からすると、「全部つながっているのに、なぜ相談先だけ分かれているんだ」という感覚にもなる。
制度につながれないのは、無知だからでも、怠けているからでもない。その制度にたどり着くまでの道が、もうかなり重いのだ。
申請しないのではなく、申請できない人がいる
この話をすると、「制度があるのに使わないのは本人の問題では」と見る人もいる。けれど僕は、その見方はかなり危ういと思う。
たしかに、制度を知らないまま終わる人はいる。でも、それを単に自己責任で片づけるのは乱暴だ。情報があれば届く、窓口があれば行ける、制度名を知れば使える。そういう前提がもう崩れている人がいる。
生活が追い込まれていくと、人は「申請するかどうか」を冷静に選んでいるわけではなくなる。考える余白がない。怖い。面倒というより重い。断られたら終わりだと思ってしまう。必要書類をそろえるまでに心が折れる。つまり、申請しないのではなく、申請できない。
この違いはかなり大きい。前者なら啓発や周知の問題で済むかもしれない。だが後者は、制度の運ばれ方そのものの問題になる。制度不信というより、制度が自分のところまで来てくれないことへの不信だ。
「困ったら相談を」という言葉が軽く響いてしまうのは、その言葉の先にある重さが見えていないからだと思う。
必要なのは、制度を増やすことより届き方を変えることだ
もちろん、制度の中身を改善することも大事だ。対象、金額、運用、柔軟性。どれも大きな論点だと思う。ただ、それと同じくらい大事なのが、届き方だ。
どれだけ制度を並べても、入口で削られ、途中で折れ、説明できず、書類で止まり、相談の手前で消えていく人が多ければ、実際には届いていないのと近くなる。制度があることと、制度が使えることは別だ。
必要なのは、説教より先に整理してくれる人だと思う。何に困っているのか一緒に分けてくれる人。窓口までつないでくれる人。一回で通らなくても切れずに続く導線。制度の知識だけでなく、生活の混乱を翻訳してくれる伴走。そういうものがあってやっと、「制度はある」が「制度につながる」に変わる。
結局、制度は紙だけでは人を救えない。人に届く形に直されて、初めて意味を持つ。そこを無視して制度論だけしても、現場はあまり変わらないと思う。
制度はある。でも通らない社会は、救済より選別に近づいてしまう
ここが一番怖いところかもしれない。制度はある。でも通らない。そうなると何が起きるか。助ける制度のはずが、結果として「たどり着ける人」と「たどり着けない人」を分ける装置みたいになってしまう。
本来、救済の制度は、弱っている人ほど届きやすくなければおかしい。ところが現実には、整理できる人、説明できる人、時間を作れる人、折れない人のほうが通りやすい。逆に、混乱している人、疲れ切っている人、うまく話せない人ほど手前で止まりやすい。それでは、救済より選別に近づいてしまう。
僕は、令和の貧困のきつさはここにもあると思う。金がないことだけでもつらいのに、助けを求める工程そのものが試験みたいになる。そこを通れないと「自己責任」に戻される。この流れが、人を何度も黙らせる。
制度の有無だけでは足りない。本当に問うべきなのは、助かる前に削られていないかどうかだ。そこを見ないと、いつまでも「制度はあるのに、なぜ助からないのか」が分からないままになる。
編集後記
この話を書くと、「いや、親切な窓口もある」「ちゃんと助かった人もいる」と言われるかもしれない。それは本当にそうだと思う。全部を一色に塗るつもりはないし、現場で一生懸命やっている人もいるはずだ。
ただ、それでもなお、窓口不信が広がっている現実は見ないといけない。なぜなら、それは単なる気のせいではなく、制度の届き方の弱さとして現れているからだ。助ける制度のはずなのに、そこへ行くこと自体が怖くなる。その状態は、やはり健全ではないと思う。
第5話では、支援団体が最後の砦になっている現実を書いた。第6話では、その背景にある窓口不信を書いた。ここまで来ると、最後に問うべきことはかなりはっきりしてくる。生活保護は、本当に「崩れ切った後」にしか使えない制度のままでいいのか。もっと手前で使える社会に変えられないのか。第7話は、そこを正面から書きたい。


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